一中節、音のない中にある美意識

レクチャーで、都一中さんは、印象深い話をしてくれた。

 いわく、「常盤津、清元、長唄が英語やフランス語だとしたら、一中節はラテン語みたいなものです」。古典の中の古典といった存在で、各時代のある層が有する文化教養的な矜持
きょうじ
に守られつつ、細いながらも筋目正しい流れを作って今に至るということだろうか。

 いわく、「常盤津と一中節の違い、わかりますか? 使う三味線は何ミリ単位でカタチが異なります。そして、常盤津を好んだのは江戸っ子でも現役のばりばりの船頭や大工たち。三味線の糸にバチが触っている時間が短くて、ごついけれどもさっぱりと音を刻んでいく。それに比べて、あんなに速く弾くテクニックは、はしたない、ゆったり上質な音をよしとするのが一中節で、こちらは引退した大旦那たちに人気でした。彼らは直接的な表現は好まない。たとえば、『庭の松を見てごらん』といえば、一喜一憂するんじゃないよ、いつもみずみずしい心を持って臨むのだよ、といった意味が込められているのです」
この話は、都一中さんが、先代から教えを受けていた時のエピソードに通じるところがある。それは、王禅寺善明氏の「一中節十二世 都一中の世界」(西田書店)に詳しい。

 「一中節の秘伝が書いてある」と言って渡された書簡を開いてみると、「あ い う え お か き く け こ……」。書いてあるのはそれだけだった。一中節は他の邦楽と違い、三味線の音に合わせて言葉の最後にある母音を長く延ばし、発音する。たとえば、「か」は「かあ〜」と延ばす。穏やかに、ゆったりと、上品に。それが、一中節なのである。

 いわく、「日本の音楽を楽しむ秘訣は、音を聴かないこと。音と音の間、音がしていないところに深い表現があるからです。それは、雪舟の絵画にも通じるところがあります」。

 なんだか禅問答のようだが、これも王禅寺氏の本にヒントがあった。

 初代一中は、寺でつく鐘の音が、ゴォーンと鳴り響きながら消えていく刹那を音楽で表現したという。そこで表現した音こそが悟りの境地の音であり、だから自分の三味線も音が消えるところに責任を負わなければならない、との覚悟を都一中さんは語っている。
記念演奏会で、もう一つ素晴らしかったのは、照明家の豊久将三さんとのコラボレーション。「都一中の音色は、雲の切れ間から強い太陽の光が差す感じと同じ。あくまでも清らかに、透明に、しかし、強く……」と語る豊久さんは、水色、緑色など透明感のある舞台装置を、微妙な光のニュアンスで映し出した。

 都一中さんは今年、還暦を迎える。

 「この世界、ようやく新卒社会人でスタートラインに立てたといった感じで、80歳ぐらいが全盛期。江戸の趣味人の美意識がいかに優れていたかを振り返りつつ、原点に戻って、また現代の風流人の好尚
こうしょう
にこたえられる三味線音楽を追求していきたいのです」

 昨年、都一中音楽文化研究所を設立し、今後は、世界で活躍する若手・中堅ビジネスマン向けの啓蒙企画や、親子参加型の料亭での音楽会、外国人駐在員や留学生向けの音楽会なども企画している。

 今度はぜひ、畳のある座敷空間で一中節を聴いてみたいと思った。